■ 糸操り人形

aquio2004-11-23

糸操り人形劇団「みのむし」の
「飯室康一」さんから、
操り人形についてのレクチャーを受ける。
江戸時代の初めころ、
糸操り人形とカラクリ人形の名手と言われた
「竹田近江/たけだおうみ」が、
大阪の道頓堀に「竹田人形座」を旗揚げする。
竹田人形芝居は、
「竹田を観ずして大阪に行ったと言うなかれ」と
言われるほどの人気を博したらしい。
日本の糸操り人形芝居は、
約四百年もの歴史を持つ日本独自の伝統芸能なのだ。
当然、歌舞伎や文楽よりも、その歴史は古い。
その後、
竹田人形芝居の技術は連綿と受け継がれていく。
昭和三十年、
竹田人形座の流れをひく糸操り人形の名手であった
「結城孫太郎」は、「竹田三之助」と改名し、
東京に「竹田人形座」を開く。
その三之助の芸養子であったのが、
天才の呼び名を欲しいままにした、
「竹田喜之助」と「竹田扇之助」の二人。
しかし、昭和五十四年、
喜之助は不慮の事故で帰らぬ人となってしまう。
享年五十六歳。
喜之助はその短い生涯の内に、
約二千五百体もの人形を制作する。
喜之助の死後、
事実上、竹田人形座は解散してしまうことになる。
飯室さんは、
その日本の伝統芸能である「竹田人形」の
数少ない後継者の内の一人。