■ 感性・その2

aquio2007-09-27

今日、また、
「感性豊かに子が育つようなおもちゃありますか」、
とある母親から訊かれる・・・。
またか!、なのであるね。
確か二年ほど前の日記にも書いた憶えがあるが、
そんなおもちゃがあるのなら、
こちらが教えていただきたいほどである。
おもちゃを与えておけば、
子は勝手に感性豊かに育ってくれる、
とそう思い込んでいるのだ。
「感性ってどういう意味ですか?」
と訊くと、何も答えられない・・・。
子どもが数学好きになる電卓などあるはずはないのであるが、
ま、そのようなコトをおもちゃに期待しているのであるね。
私はおもちゃの世界に住んでいるが、
専門はその歴史とデザインの研究なのである。
しかし、何を勘違いされるのか、
このようなピントの外れた質問をよく受ける。
また、ピントの外れた講演会の依頼もよく舞い込む・・・。
そのほとんどは、
「感性豊な子どもに育てるためのおもちゃの与え方」、の講演依頼なのである。
当然、それらの依頼は片っ端から断ることにしているが、
時には、義理がらみで引き受けざるを得ないこともある・・・。
聞いた話だが、
その昔、
数学者の「岡潔」がある講演会に引っ張り出されたことがあったという。
ほとんど無理やり引っ張り出されたのであったらしい。
その講演会のタイトルは、
「子どもを数学好きに育てるためには」、というものであったらしい。
演台に立った「岡潔」はおもむろにマイクを取り上げ、
「あ〜、ただいまマイクの試験中」
「本日は晴天なり」「本日は晴天なり」「本日は晴天なり」、と喋るや否や、
スタスタと演台を下りてサッサと帰ってしまった、という。
なかなかに痛快なエピソードではある。
「子どもを数学好きに育てるためには」、
そのような方法などあるはずがないではないか。
岡潔」はそのことを言いたかったのだろう。
あと二ヶ月ほどで私は六十一歳になる。
もう怖いモノなどほとんどない。
私も次からそうしてみようか。
「本日は晴天なり」「本日は晴天なり」「本日は晴天なり」・・・。
残された聴衆は呆気にとられるだろうし、
慌てふためく主催者の姿が眼に浮かぶようである。