■ 感性・その2
今日、また、
「感性豊かに子が育つようなおもちゃありますか」、
とある母親から訊かれる・・・。
またか!、なのであるね。
確か二年ほど前の日記にも書いた憶えがあるが、
そんなおもちゃがあるのなら、
こちらが教えていただきたいほどである。
おもちゃを与えておけば、
子は勝手に感性豊かに育ってくれる、
とそう思い込んでいるのだ。
「感性ってどういう意味ですか?」
と訊くと、何も答えられない・・・。
子どもが数学好きになる電卓などあるはずはないのであるが、
ま、そのようなコトをおもちゃに期待しているのであるね。
私はおもちゃの世界に住んでいるが、
専門はその歴史とデザインの研究なのである。
しかし、何を勘違いされるのか、
このようなピントの外れた質問をよく受ける。
また、ピントの外れた講演会の依頼もよく舞い込む・・・。
そのほとんどは、
「感性豊な子どもに育てるためのおもちゃの与え方」、の講演依頼なのである。
当然、それらの依頼は片っ端から断ることにしているが、
時には、義理がらみで引き受けざるを得ないこともある・・・。
聞いた話だが、
その昔、
数学者の「岡潔」がある講演会に引っ張り出されたことがあったという。
ほとんど無理やり引っ張り出されたのであったらしい。
その講演会のタイトルは、
「子どもを数学好きに育てるためには」、というものであったらしい。
演台に立った「岡潔」はおもむろにマイクを取り上げ、
「あ〜、ただいまマイクの試験中」
「本日は晴天なり」「本日は晴天なり」「本日は晴天なり」、と喋るや否や、
スタスタと演台を下りてサッサと帰ってしまった、という。
なかなかに痛快なエピソードではある。
「子どもを数学好きに育てるためには」、
そのような方法などあるはずがないではないか。
「岡潔」はそのことを言いたかったのだろう。
あと二ヶ月ほどで私は六十一歳になる。
もう怖いモノなどほとんどない。
私も次からそうしてみようか。
「本日は晴天なり」「本日は晴天なり」「本日は晴天なり」・・・。
残された聴衆は呆気にとられるだろうし、
慌てふためく主催者の姿が眼に浮かぶようである。