■ 田舎

aquio2007-05-16

私の家は標高一三〇〇メートルの山の中腹にある。
隣の家までの距離は約五百メートル。
文字通り、山の中の一軒屋である。
村には江戸時代から続く様々なしきたりがあり、
いろいろな行事がある。
また、いろいろな事件もある・・・。
冠礼、婚礼、出産、病気、火事、
水害、建築、旅行、葬儀、そして年忌。
冠礼とは現代の成人式のこと、
年忌とは祥月命日のこと。
三回忌、七回忌といった法要のことだと思えばいいだろう。
で、上記「十」のしきたり・行事の内、
「葬儀」と「火事」、この二つを除く付き合いを拒否されることがある。
これがいわゆる「村八分」と呼ばれるものであるのだが、
私の家はほとんどこの「村八分」の状態にある。
酒を酌み交わす人もいれば、悩みを相談できる人もいるのだが、
ま、ほとんど村とは没交渉、といってもいいだろう・・・。
「人は死んでしまえば仏様」
「仏になった者は手厚く葬らなければならない」
「火事はその者の全財産を奪ってしまう」
「また、その延焼も恐ろしい」
だから、その「二分」のお付き合いだけはしましょう、ということなのだが、
そこには、村に伝わる知恵のようなものを感じる。
村八分」、とても嫌な言葉だが、
「十分」の内の「二分」を残した、ということは、
完全に拒絶はしない、ということではないのか。
拒絶しているようでありながら、実は拒絶しない。
それは、村という閉鎖社会に生きる人々の知恵ではなかったか・・・。
昨夜、神戸のアパートから自宅に帰る。
車を運転しながら、そんなことを考えていた。
今朝、目覚めてみると庭の躑躅は満開であった。