■ 息子・その2

aquio2009-01-05

長男のDと会ったのは、
昨年末の十二月五日のことだった。
その日の日記にも書いたが、
Dはオタク相手のイラストなどを描いて生計を立てている。
Yahoo!」などに息子の名前を入れて検索してみると、
約二十万件ほどもヒットするから、
ま、その世界では著名人なのであろう・・・。
今日、ネット上をウロウロと徘徊しているうち、
ANA ユニフォーム・コレクション第二弾発表」、
などというサイトを見つける。
「ムム、これはひょっとしたら!?」、と開いてみると、
やはり、Dがデザインしたフィギュアが八種類ほど紹介されていた。
前回、DがANAキャビン・アテンダントのフィギュアをデザインしたのは
今から三年半ほど前のことだったが、
その時は、十種類のフィギュアが総計百万個近く売れたらしい。
前回と同じ柳の下の泥鰌を狙った企画といえるが、
そうは問屋が卸すかどうか、親としては気にかかる・・・。
次男のSは三年半ほど前に、
有馬温泉にイタリアン・レストランを開業させた。
観光地であるから、季節によってお客様の入り具合は変動するが、
お客様からの評価はなかなかのものであるらしく、
固定のお客様もついてきた、という話をよく聞く。
ま、SはSなりに頑張っているようであるな。
さて、三男のSであるが、
こいつはコンピューター関連の仕事に就いているが、
専門用語が多いから、話を聞いてもチンプンカンプン。
コンピューターは解ったが、
コンピュータのどのような仕事をしているのか、がまったく解らない・・・。
しかし、仕事を抱えてイタリアに出かけたりアメリカに出かけたりしているところをみると、
少しは世間のお役に立っているのだろう・・・。
三人の息子たちは皆立派に成長してくれた。
人生一寸先は闇。
明日のことは誰にも解らないが、
息子たちは私を反面教師として学んできたことが多いはずであるから、
ま、彼らは彼らで何とかしていくことだろう・・・。
しかし、向後の憂いというのは、なかなかに晴れないものであるなぁ・・・。

■ キツネとタヌキ

aquio2009-01-04


私が母方の祖母と暮らしていた頃。
今から五十三年ほども前のこと。
祖母が住んでいた里山には
キツネやタヌキもまたたくさん住んでいた。
ある夏の日、
隣の婆さんが息急き切って飛び込んできたことがあった。
「畳と畳の合わせ目から人間の親指が出てきた」、
ということであった。
「どれどれ」、と祖母と出かけていくと、
どこにも指など出てはいない。
「見間違いだろう」ということで一件落着したのだが、
当日の夜、その婆さんが部屋で過ごしていると、
またもや、「畳の間から指がニュルリと出てきた」、というのである。
その「ニュルリ」という婆さんの表現が実に生々しく、
今もその時のことを鮮明に憶えているのだが、
「あんた、そらいっぺん拝み屋さんに診てもうた方がええで!」、
ということになり、祖母と婆さんはバスに乗って町に出かけていった。
「隣の婆さんの家は、もともとはタヌキの棲み処であった」
「そこに婆さん一家が家を建てたものだから、タヌキが怒っている」
「タヌキは今も床下に棲みついている」
「タヌキは婆さん一家を追い出そうとしているに違いない」。
それが拝み屋の見立てであったらしい。
「ほんなら笹の葉を燃やして燻したらええやんか」、ということになり、
両家総出でタヌキを燻りだすことになった。
私などはタヌキを捕まえるために網まで用意していたのだが、
とうとうタヌキは出てこなかった。
ま、タヌキがそれで出て行ったかどうかは知らないが、
以来、畳の間から指がニュルリと出ることはなくなった、らしい。
「風呂だと思っていたら肥え溜めに入っていた」とか、
「美味い饅頭だと思って食っていたら馬糞だった」とか、
当時、田舎においては、
タヌキやキツネに化かされたなどという話はどこにでも転がっていたな・・・。
「内山節」著による「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」、
を読んでいてふと思い出した子どもの頃の話・・・。

■ 文鎮

aquio2009-01-03

刀鍛冶でいらっしゃるМさんのお嬢さんにお会いしたのは、
まだ彼女が小学五年生の時であった。
次にお会いしたのは、
彼女が大学受験を控えていた時であるから、
十八歳、ということになるか。
そういえば、五年前にも一度お会いしているな。
昨年末、そのお嬢さんが、
ご亭主とともに私のアトリエを訪れてくださったのだが、
今朝、彼女からズシリと重い封書が届く。
封を開いてみると、中から一つの文鎮が出てきた。
「鍛鐵降魔」と刻印された文鎮。
「降魔」には「魔物を退けて悟りを得る」というような意味があるから、
「鍛鐵降魔」とは、
「魔物を退けて悟りを得るための鉄を鍛える」、という意味になるのかな!?
添えられていた手紙には、
「主人は父の跡を継いで刀鍛冶になることを決意してくれました」
「しかし、まだまだ切れる刃物を鍛えるまでには至りません」
「主人の作った文鎮をお贈りいたします」、
と書かれていた。
昔、彼女のお父さんから一振りのナイフを頂戴したことがある。
「Nさん(私のこと)、貴方にナイフをプレゼントするよ」、
と一振りのナイフを頂戴したのだが、
「これが私の自信作」、と言って見せられたナイフの素晴らしかったことといったら・・・。
見せられたナイフと頂戴したナイフを見比べてみると、
どうしても頂戴したナイフが見劣りしてしまう。
その切れ味を指の腹に当てたりして試しているうち、
「解った、解った、もうそっちのいい方のナイフをあげるわ」
「ナイフも解る人に使ってもろうたら本望やろ」、
と、そのМさん自信作のナイフをちゃっかり頂いてしまったことがあった。
古式の製法にのっとって鍛えられたナイフ。
あれから十五年ほどは経つだろうか、
頂戴したナイフは今も大事に使わせていただいている。
もっとも、研ぎを繰り返したせいですっかり短くなってしまったが・・・。

■ カレンダー

aquio2009-01-02

年末ともなると、
取り引き先や銀行からカレンダーを頂戴するのだが、
今年はそのカレンダーを一冊も頂戴していないことに気付く。
カレンダーの数え方は「冊」でよかったのかな・・・?
昨今は不景気であるから、
企業がカレンダーの配布を止めてしまったのかもしれない。
もっとも、
気に入らないカレンダーを頂戴した場合など、
結局はゴミとして廃棄するしかなかったのだから、
資源保護の観点からしても、
これはこれで大変に結構なことではないか、と思う。
カレンダーといえば、
一世を風靡したメンズ・ファッション・メーカー「VAN JAC./ ヴァン・ジャケット」が、
「CAPE COD SPIRIT」というキャンペーンを打ち出したことがあった。
その時のカレンダーが格好よかった・・・。
白い帆に「CAPE COD SPIRIT」とプリントされたヨットが海の上を疾走する、
というシーンを印刷したカレンダー。
「CAPE COD」といえば、
清教徒が新天地アメリカに最初に到達した地点であったし、
あの「ケネディ」家の別荘があることでも有名な岬だった。
もっとも、撮影された場所はアメリカの「CAPE COD」ではなく、
日本の三浦半島の辺りであったらしいが、
そのカレンダー欲しさに、私はせっせと「ヴァン」で買い物をしたものだった。
「お金を出してでも欲しい」、とそう思わせるカレンダーだったな。
「CAPE COD SPIRIT」のカレンダーを天井に貼り、
ベッドに寝転がっては、まだ見ぬ海外への空想を膨らませたものだった。
あれは私が二十歳の頃であったから、もう四十年以上も前のことになる。
当時のカレンダーといえば、
十二ヶ月十二枚綴りのものが主流であったように記憶しているが、
「ヴァン」のカレンダーには、
六・七・八月の三ヶ月分しかプリントされていなかった。
これもなかなかに新鮮な感覚であったように思う。
九・十・十一月分のカレンダーが欲しければ、
秋・冬もののセーターやカーデガンを買わなければならなかったが、
それでも、「ヴァン」のカレンダーは当時の若者のステータスであった・・・。

■ お正月

aquio2009-01-01


元旦の「旦」の字は、
地平線、または、
水平線から太陽が昇ってくるシーンを表した文字である、
とそう誰かに教えられた憶えがある。
「元」の意味は「はじめ」、つまり「beginning」。
「旦」の意味は「朝」、つまり「morning」。
なるほど、よくできているな、と感心してしまう。
私は兵庫県明石市の生まれだが、
「明」という文字は、
「日」と「月」だから「明るい」のではなく、
この場合の「日」は「窓枠」を表す象形文字であるらしい。
「窓枠」を通して「月」の光が差し込むから「明るい」のだそうである。
なんとロマンティックな表現であることか。
日本語は美しいねぇ・・・。
歳をとったせいか、
近頃は母国語に大きな関心を持つようになったが、
読めても書けない漢字のなんと多いことか・・・。
情けないったらありゃしない。
しばらく中断していた英会話も再開したい、とも思うが、
いくら英語が喋れたところで、備わった知性以上の会話はできないものであるしね・・・。
日本語で「源氏物語」について語ることができなければ、
英語で「源氏物語」について語ることはできない、ということ。
さて、今日はお正月。
年頭に際しいろいろと思うことも多いが、
今年からは母国語にもう少し慣れ親しんでみようか、と思う。
あと一つ。
私も歳が歳であるから、
今年からはもう少し自分の身体を労ってやろう、とも思う。

■ ももひき

aquio2008-12-30

中国の某ファッション誌の編集長の、
「ももひきを穿くのは格好が悪い」
「欧米では笑いものにされている」、
という発言が国中で物議をかもしているらしい。
今から四十年ほど前のことであったと記憶しているが、
日本においても、
「男のももひきほど格好の悪いものはない」、
という発言が某女優の口から飛び出したことがあった。
加賀まりこ」じゃなかったかな!?
以来、都市部ではももひきがさっぱり売れなくなってしまった。
夏はすててこ、冬はももひき。
この二つは男の必須アイテムであったように記憶しているが、
女にもてようとして、
若い男たちは寒さを我慢してももひきを穿かなくなってしまったのだった。
かく言う私もその内の一人だったのであるが、
二十八歳の時の冬を境に、
ももひきをまた愛用するようになってしまった。
今から三十四年前、
私は福島県会津磐梯山の裏側に住んでいた。
いわゆる「裏磐梯」と呼ばれる地域。
五色沼桧原湖、小野川湖のすぐ近く。
冬ともなると、屋外の気温はマイナス十度を軽く超えてしまう。
ももひきを穿いていなければ、命にかかわってしまう。
昔、「伊達の薄着で洟垂らす」という言葉があったが、
伊達者を気取るほど馬鹿馬鹿しいことはない。
それに、自分が意識するほど他人が自分を見ているなんてことはないしね・・・。
寒けりゃぁ堂々とももひきを穿けばいいのである。
女の目線など気にしなければいいのだ。
女はパンティ・ストッキングなどという便利なものを穿いているではないか。
パンティ・ストッキングなど脱皮を終えたニシキヘビの抜け殻のようなもの。
そんなものを穿いている女に、
「ももひきは格好が悪い」、などと言われたくはないものである。

■ キムチとすぐき

aquio2008-12-27

今回の旅のお土産は、
「Kriepa」のティッシュ・ペーパー一ダース。
「Dallmayr」の新商品であるらしい
エチオピアブレンド」のコーヒー五袋。
「AJONA」の錬り歯磨き四箱。
そして、不味いと評判の高い
「Pulmoll」のクラシック・キャンディを三缶。
「Dallmayr」のフランケン・ワインは
ミュンヘンにお住まいのGさんから頂戴したもの。
「David Carter」の飛び出す絵本は
ハフナーさんからクリスマス・プレゼントに頂戴したもの。
自分で買ったものといえば、
ティッシュとか歯磨きとかの日用品ばかり。
正直なところ、
海外に出かけても欲しいと思うものがほとんど無い・・・。
荷物を整理し、
「さて、アパートに帰ってさっさと寝よう」、と思った時、
不意に「キムチ」が食べたくなる。
摂食障害を起こしている時に、
よりによって「刺激の強いキムチ!?」とは思ったが、
「食べたいと思うものを食べたい時に食べておこう」と思い直し、
マーケットに出かけてキムチを購入する。
漬物のコーナーをブラブラと物色するうち、
美味そうな「すぐき」を見つけ、これも一緒に購入する。
アパートに戻り、冷凍してあったご飯を温めて粥を作り、
キムチとすぐきを皿に盛りつける。
これが実に美味かった・・・。
さすがに粥は一膳も食べきれなかったが、とても美味しく頂けた・・・。
量ってみると、ここ三週間ほどの間に体重が六キロほども減少してしまっていた。
明日からはリハビリに精を出さなければならないが、
食欲が出てきた、というのはとてもいいことであるな。