■ BRUNO MUNARI / ブルーノ・ムナーリ・その2

aquio2008-05-06

滋賀県のどこやらで、
ブルーノ・ムナーリ展」が開催されるらしい。
今朝、某出版社の某編集部から、
「ムナーリ」の作品についてコメントを書いて欲しい、
という依頼が舞い込む。
「霧の中のサーカス」と「ABCを組み立てよう」、
そして、「建築の箱」の三点についてのコメント。
「霧の中のサーカス」は三十年ほど前に入手済みであるし、
「建築の箱」については、これも三年ほど前に入手した。
「ABCを組み立てよう」は、つい最近に入手したばかり。
「ま、何とかなるだろう」、と気軽に引き受けたのだが、
編集部から提示された条件は、
「夫々約百文字までの文章」、ということであった。
「えらいこっちゃ」、なのであるね。
文章を短くまとめるほど、時間のかかる作業はない。
いくつかの書きたい要素をズラズラと並べた後、
並んだ言葉を取捨選択して整理しなければならない。
四百字程度の文章であれば簡単に処理できるが、
百字となると、相当に時間がかかってしまう・・・。
で、「ブルーノ・ムナーリ」が過去にどのように紹介されているのか、
まずはその辺りから調べてみることにした。
調べ始めて驚いた・・・。
「ABCを組み立てよう」を例にとると、
そこには「知育」という言葉がズラズラと並んでいるではないか。
「知育」「知育」「知育」「知育」・・・なのであるね。
子どもにアルファベットを教えるための「玩具」である、と言わんばかりの紹介の仕方が目に付く。
「ABCを組み立てよう」の原題は「ABC CON EANTASIA」。
つまり、「ABC WITH IMAGINATION」。
その「IMAGINATION」という言葉が指し示すように、
「ABCを組み立てよう」は決して教育のために作られたモノではないはず。
「まずはこれを使って遊んでみよう」。
「まずはイマジネーションの世界で遊んでみよう」。
それが「ムナーリ」の言いたかったことではないだろうか・・・。
知識も大事だが、
想像の世界で遊べない子どもは、決して創造の世界に入っていけないものである。
知識偏重で育てられた子どもが「ムナーリ」のようになれるとは思えない。
「知育」という言葉には、なんとなく精神の貧乏臭さを感じてしまう。
どうやら、その辺りに文章をまとめるポイントがあるような気がする。