■ BRUNO MUNARI / ブルーノ・ムナーリ・その2
滋賀県のどこやらで、
「ブルーノ・ムナーリ展」が開催されるらしい。
今朝、某出版社の某編集部から、
「ムナーリ」の作品についてコメントを書いて欲しい、
という依頼が舞い込む。
「霧の中のサーカス」と「ABCを組み立てよう」、
そして、「建築の箱」の三点についてのコメント。
「霧の中のサーカス」は三十年ほど前に入手済みであるし、
「建築の箱」については、これも三年ほど前に入手した。
「ABCを組み立てよう」は、つい最近に入手したばかり。
「ま、何とかなるだろう」、と気軽に引き受けたのだが、
編集部から提示された条件は、
「夫々約百文字までの文章」、ということであった。
「えらいこっちゃ」、なのであるね。
文章を短くまとめるほど、時間のかかる作業はない。
いくつかの書きたい要素をズラズラと並べた後、
並んだ言葉を取捨選択して整理しなければならない。
四百字程度の文章であれば簡単に処理できるが、
百字となると、相当に時間がかかってしまう・・・。
で、「ブルーノ・ムナーリ」が過去にどのように紹介されているのか、
まずはその辺りから調べてみることにした。
調べ始めて驚いた・・・。
「ABCを組み立てよう」を例にとると、
そこには「知育」という言葉がズラズラと並んでいるではないか。
「知育」「知育」「知育」「知育」・・・なのであるね。
子どもにアルファベットを教えるための「玩具」である、と言わんばかりの紹介の仕方が目に付く。
「ABCを組み立てよう」の原題は「ABC CON EANTASIA」。
つまり、「ABC WITH IMAGINATION」。
その「IMAGINATION」という言葉が指し示すように、
「ABCを組み立てよう」は決して教育のために作られたモノではないはず。
「まずはこれを使って遊んでみよう」。
「まずはイマジネーションの世界で遊んでみよう」。
それが「ムナーリ」の言いたかったことではないだろうか・・・。
知識も大事だが、
想像の世界で遊べない子どもは、決して創造の世界に入っていけないものである。
知識偏重で育てられた子どもが「ムナーリ」のようになれるとは思えない。
「知育」という言葉には、なんとなく精神の貧乏臭さを感じてしまう。
どうやら、その辺りに文章をまとめるポイントがあるような気がする。